・足元に流れる水  春を孕んだ風が吹いた。開け放した窓のカーテンがふわりと持ち上がり、またゆっくりと戻っていく。  もう夏が近い。おだやかな日差しの中で新緑がざわめいていた。  アリスは大きな窓のある部屋で本を読んでいる。本棚の隅で死なせていた陳腐な恋愛小説の本だが、暇つぶしにはちょうどいい。そのテーブルの上には紅茶のカップがある。一人分。  焼き上げたばかりのクッキーも並べて、時折つまみながらページを繰る。時間はゆるやかに流れる。  風が吹く。 「よう」  カーテンが揺れたかと思えば、黒い鼠の影が窓の縁にあった。アリスはちらりとそちらを見やり、ふぅと溜息をついた。 「玄関から入ってきてって、いつも言ってるでしょう」  そうして、栞を本に挟むと立ち上がって台所に向かう。伏せてあったカップを戻して、ケトルを火にかけた。いつもそうするように。いつもそうしていたように。   湯が煮立って紅茶を淹れるのにちょうどよくなるまで、またテーブルの椅子に腰を落ち着けて本を読むことにする。  風が吹く。白のレースのカーテンが揺れる。ふわふわゆらゆら。まるであれは彼岸に揺れる魂のように。  魔理沙は微笑んでこちらを見ている。  火は燃えている。  アリスはじっと、百年前の恋物語を追う。  誰かが時間のながれをわざと捻じ曲げているようだった。  太陽はぎらぎらとしている。  蝉の幼虫が湿った土の下で来るべき終わりをじっと待ち続ける。  近づいた終わりの気配。  強い風が吹いた。ごうと音がして、カーテンが大きく揺れる。陰はもうない。まるで吹き飛ばされたかのようだった。  ケトルがけたたましく汽笛を鳴らした。アリスは静かに立ち上がり、そっと窓を閉める。  取り残された柔い風が、するりと彼女の頬を撫でてやがてどこかに逃げ去った。  春から夏へ。死のにおい。幻影。それは突然訪れた。 ・しろい蛇  やけに静かな夜だった。  咲夜は自室で事務仕事―経費をまとめたり一か月分の献立を決めたり、そんなことだ―を片付けていた。  月の光が眩しくて、小さな窓から一条の光の筋が真っ直ぐに伸びている。  大方処理が済んだところで少し休憩でも入れようかと思っていると、不意に部屋の扉がノックされる。 「咲夜さん、私です」  美鈴の声だ。  咲夜は立ち上がって扉を開ける。お盆を持った美鈴が立っていた。その上には茶器と茶菓子が載っているのが見える。 「お仕事のお話をしながらお茶でもと思いまして」 「ちょうどよかった。休憩しようと思ってたところだから」  咲夜が使っていた机の脇にもう一つ椅子を置き、そこに美鈴を座らせる。  人員配置の確認やお互いの仕事の近況報告をしながら、美鈴の淹れた茶を飲んだ。いつも淹れてくれる中国茶だった。  咲夜は、自分の冷え性の手先がぽかぽかと暖かくなるのを感じて心地よかった。  その後も他愛も無い話をしながらティータイムは続く。  ― 「あ、咲夜さん、随分長いこと机仕事してたみたいですけど疲れてません?」 「そうねえ、ちょっと体が変な感じかも…」  茶碗の中身がほとんど無くなった頃、どこか収まりが悪そうに咲夜が身じろぎするのを見て美鈴が尋ねる。  それじゃあ、と一つ置いてから美鈴は咲夜の手をとった。 「最近ツボっていうのを覚えましてね、ここをこうやって…」 「い…ぃっ!」 「あー、咲夜さん、ここ肩こりのつぼですよ。相当キてますねえ」 「いたたた…そうねえ、気付かなかったけど結構疲れてるみたい……って、痛いって!」 「ちなみにこっちは胃です」  美鈴は咲夜の白く柔らかい手を刺激しながら、普段あまり見られないような表情も一緒に楽しんでみる。  "痛くないところ"をマッサージされるとよっぽど気持ちいいのか、ほとんど何も言わないで安堵の表情を浮かべていた。  美鈴は何ともなしに彼女の手をじっと見てみた。  水仕事も多いだろうにあかぎれの一つも無く艶々して綺麗なのは、きっと彼女が彼女の主から大切にされていることの証なんだろう。羨ましくもあるが、それよりも咲夜がそんな風に想われている事に少し安心して嬉しくなった。  ふと、美鈴は咲夜の指の爪が伸びているのに気付く。  不意にどきりとした。  気付かれないように咲夜の表情を覗き込んでみる。目を閉じて微笑んでいて、時々痛みに顔をしかめていた。  よくよく見てみれば『以前』見たときには肩にかかるまでの長さだった髪も、いつの間にか背中の中程に届くまでになっている。  今度は自分の手に視線を落とした。大きくて無骨だ。髪も爪も、もう何十年と切っていない。  成熟した妖怪である美鈴に、身体的成長はほとんど無い。  そういえば、彼女がこの館に来てから一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。  随分と長い時間が経った気もするし、そうでない気もする。  考えている間、知らず知らず美鈴の手は止まっていた。 「美鈴、どしたの?」 「あ、ああ、咲夜さん。爪、伸びてますよ」  整った形に切られていた爪からは、やり過ごした時間がそれだけの分白く伸びている。  伸びるうちにばらばらになってしまった毛先は、何となく見送ってきた時間の流れの無造作さを現しているようだった。  手のひらに伝わる咲夜の手の温度。熱を持って暖かく、まるで子供のようだった。  なんだか居た堪れなくなって、ぐっぐっと念を押すように指圧してからその手をぱっと離した。途端に、冷たい部屋の空気が美鈴の手にあったその熱をこそげ落としていく。 「こんなもんでしょう」  短く言って、自分の茶碗の僅かな残りをぐいと飲み干して椅子から立ち上がる。  既に空になっていた咲夜の茶碗と自分のそれを重ねてお盆に載せて、茶器を片付けた。 「もう行っちゃうの? まだ居てもいいのに…」 「長々と居るのも悪いですし、それに咲夜さんはまだお仕事の途中でしょう」  眩暈がするような思いだった。自分が何を言っているのかも段々わからなくなってきそうだった。自分がどうしてこんなに焦っているのかもよくわからなかった。  ただ少し、意識してしまっただけで―。 「夜分遅くに失礼しました。おやすみなさい」 「うん、おやすみなさい」  美鈴が部屋を出て行くとき、ちょうど咲夜は机の引き出しから爪切りを取り出して、左手の親指の爪を切り始めようとするところだった。  ―  自分の寝床に戻った美鈴は、じっと自分の手の指の爪を見つめた。どこか青白く見える。なんて冷たい手なのだろう。  やけに静かな夜だった。  その静けさを、美鈴は彼女が居ない今でもはっきりと思い出せる。 ・桜楼 「近いんですね」 「おそらく」  診療を終えて、ぼうっと空を見つめていた稗田阿求がぽつりと呟くと、八意永琳は手元のカルテから目を離さず短く答えた。  鉛筆がこりこりとカルテを擦り、何やら書き付けていく音だけが残る。  阿求が倒れたのはつい一週間前だった。徐々に阿求は弱っていった。今はもう、人の助け無しに歩くことはできない。  どうせ死ぬのはわかっているんだからと阿求は止めたのだが、家の使いの頭は念の為と言って医師である永琳を呼んだ。  御阿礼の子の寿命は短い。  阿求自身、幻想郷縁起を書き終えた辺りから徐々に自分の命の光が薄くなっていくのを感じていた。倒れて次に目が覚めたときは三日後だった。ようやく訪れたかとさえ思った。  御阿礼の子の求聞持の能力は、今や幻想郷縁起を書くためだけの能力だ。つまり、彼の子がそれさえ終えてしまえば最早天命を果たしたことになる。  阿求は自らの短い生を思い返していた。短いながらも濃い人生だったと思う。 「でも、今回はとても楽しく縁起作りができましたよ。妖怪の皆さんも人間の皆さんもとても個性的で…もしかしたら今までで一番遍参の回数が多かったかもしれませんね」 「そうねぇ…山に風神が来たり天人が現れたり、地下にお屋敷が現れたり。色々あったものね」  永琳は部屋の隅の文机にちらりと視線をやった。そこには新たに地霊殿の住人たちを書き入れた縁起がある。  これからもこの幻想郷には幻想という名前の現実が増え続け、その度に縁起はそれぞれの時代の御阿礼の子が書き起こしていくのだろう。 「どうせずっと縁起を編纂するなら、それこそ不死の方がやりやすいと思うんですけど…永琳さんはどう思います? 『蓬莱の薬』でしたよね」 「違いないわ」  おどけた様子で言う阿求に、永琳は肩を震わせてくすくす笑った。しかしすぐに笑うのを止めて、でもね、と前置きする。 「痛い目見るだけよ。一生ね」 「でしょうね。…それに、御阿礼の子は元から命を永らえる事は許されていません。できないのです」 「求聞持の能力」 「そうです。見聞きしたものをすべて覚えていられる。忘れたくても忘れられない」 「まるで呪われているようねえ」 「だからこれだけ祀られる位置にあるのですよ」  実際阿二や阿三の頃は忌み子として扱われていたようですし、と阿求は付け加える。  生まれたそのときから高い知性を持って言葉を解し、何一つ忘れることなく生き、そして普通よりも遥かに早く死ぬ。人々の目から見たら、彼女たちは呪われた忌み子以外の何者でもなかったのだろう。だから恐れ、祀り、こうして大きな屋敷など持つに至るのだ。 「この短い生にしても、正直辛いのです。この間使いの者が潰してしまった青虫などを見てしまって…事あるごとにはっきりと思い出してしまうのですよ」 「うちの姫様が喧嘩の最中に頭が潰されちゃったのを見たことがあるけど、もう忘れちゃったわねえ」  まだお昼前だと言うのにエグい二人である。 「あなたは、自分が何を得て何を忘れたと思いますか?」 「そうね、忘れたわ。何もかも。何を得て何を失い、何を忘れたのかさえ」 「私は忘却を羨ましく思いますよ。ふふ、皮肉なものです。たった二十年近くで死ぬ私は何も忘れられず、いつまでも生き続けるあなたは過去を忘れていく…」 「ちょっとした上手に生きるコツよ。昔のどうでもいいことはすぐに忘れるの。いちいち思い出してたら『今』がつまんなくなっちゃう」  その割には、と言いかけて、阿求は止めた。  蓬莱人には蓬莱人なりの、忘れたくても忘れられない何か大事なものがあるのだ。  ―  その音を聞きつけて、「あ」と阿求は小さい声をあげた。永琳が立ち上がり、縁側の障子を少し開け放つ。  連なる山の緑とまだ若干の寒さを残す薄い青の空を背景に、白い妖精―春告精がふよふよと漂いながら弾を撒き散らしていた。二人が聞きつけたのはこの音だ。 「もう、春なんですね」 「季節が廻るのは惜しい気持ちかしら」 「いえ。私は花を、とりわけ春の花は大好きですから。ほら、そこに桜の木があるでしょう」 「あら本当―」  阿求の言うとおり、縁側のそばには大きな桜の木が一本植わってた。  じっと見ていると、その枝には今にもほころびそうな蕾がいくつもあるのを永琳は見つけた。  もう少しすれば幻想郷中の草木は、この桜も、一斉に花をつけるだろう。  そうだ、そうしたら、輝夜やウドンゲや因幡たちと花見に行こう―。  きっとその日は、そう遠くない。